皆さんは「自分」ってなんだと思いますか?
「自分は自分でしょ」
「そう言われると、わからない」
そんなふうに思う人もいるかもしれません。
生まれてからこれまで、当たり前のように「自分」はそこにあります。
あまりにも当たり前すぎて、疑問すら持たない人も多いでしょう。
でも、私は自分のことを、感情を表面化させるハードウェアおよびソフトウェアのようなものだと思っています。
感情が発した信号を、ソフトウェアで処理し、
ハードウェア(体)がそれを言葉や動きによって物理空間に放出していく。
それを互いに送受信し合い、自己を満たしていくのが人間社会の仕組みだと考えます。
すべては感情に支配されている――私はそう考えています。
感情という暴君を、理性によってどうにか押さえつけながら、
表に出せる形に整えて表現する。
「人間社会」というルールに無理やり適合するために。
その作業はとても苦しくて、
その痛みは、自分だけが受ける。
感情に苦しめられながら、それでも感情に生かされている気がします。
自分のことを自分でコントロールできると思いますか?
理性の存在を考えれば、ある程度はコントロールできるかもしれません。
でも、感情はどうでしょうか?
感情は「湧き出る」ものだと思うのです。
湧いてくるものの傾向をつかんだり、湧いてきた後に押さえつけることはできても、
「湧いてくるゼロイチ」はコントロールできませんよね。
感情は、ランダムに出てくるガチャガチャのようなものかもしれません。
つまり、未来を100%明確に把握することができないという意味に近いです。
傾向はあるかもしれないけれど、答えは明確にはわからないということです。
そんな感情に、私たちは翻弄され、振り回されてしまう。
日常の中で、自分の感情を否定したくなる瞬間があるかもしれない。
「なんでこんなことが頭に浮かぶんだろう」
卑しいこと、ひどいこと――
自分の中にそんな感情が浮かんだことを、認めたくない時がある。
でも、その時は、自分と感情を切り離して考えてみる。
感情は、反射的に発生するものだから。
感情の「発生装置」は、自分の思い通りには作れません。
それは、10代くらいまでに歩んだ環境によって形づくられるものらしい。
だから、その装置がどんな形をしていようと、
その大部分はあなたのせいではない。
自分を否定する必要もない。
「自分が嫌だ。性格を変えたい。」
そんなふうに悩んでいる人がいるかもしれません。
実際、私もこれまで幾度となくそう思ったことがあります。
私は、性格とは、感情と理性の組み合わせだと思う。
いろいろ考えた末にたどり着いた結論は、
性格は、変えられなくはないけれど、変えるには時間がかかるということです。
なぜなら、感情を変えるのに時間が必要だから。
感情を変えるためには、理性で外圧をかけつつ、
長い時間をかけて定着させる必要がある。
歯の矯正のようなものかもしれません。
ただ、歯の場合は変える要素が物理的なものに限られるけれど、
感情はそんなに単純なものではない。
理性で外圧をかけていくだけではなく、
環境や経験といった様々な要素が絡んでくる。
たとえば、感情表現が豊かな人でも、
何かのきっかけで感情に蓋をしてしまうことがあります。
理性的に感情を抑え込むようになると、
やがて感情が湧かなくなってくるのです。
その逆、つまり湧かなくなった感情を取り戻すことは、もっと難しい気がします。
感情が思い通りにならないのは、
「自分が未熟だから」でも「心が弱いから」でもないのかもしれない。
感情はあくまで、”あなたの一部”ではなく、”あなたの中にある現象”にすぎないと、思います。
「コントロールしなければいけない」という考え方が、
そもそも自分を苦しめているのかもしれない。
感情は変わり続けます。
たとえ湧き出たものが、自分にとって嫌なものだったとしても、
それ自体は「ただの感情」です。
「自分が感じた感情」ではあるけれど、
「自分そのもの」ではない。
どんな感情も、ただ湧いては流れていく。
理性でコントロールする必要もなければ、
否定する必要もない。
時には、ただそのまま眺めるだけでいいのかもしれない。
湧き出る感情は、止めなくてもいい。
濁ったままでも、透明なままでも、
それが”あなた”というわけではないのだから。
そんなことを思った今日この頃です。